母の手が、はじまりだった
子どもが転んで膝をすりむいたとき。
親はとっさに、痛むところへ手を当てる。
熱を出した夜、額に置かれた手のひらの温かさを、覚えている人は多い。
日本にはずっと、「手当て」という言葉がある。
治療を意味するこの古い言葉が、文字どおり「手を、当てる」と書くことに、この国の身体観があらわれている。
触れること。そばにいること。手のぬくもりを分け合うこと。
指圧をつくった浪越徳治郎は、それを一言でこう呼んだ。
指圧の心は母心。押せば命の泉湧く
母が子を思うように、相手の身体に手を重ねる。
日本に古くからあった手当ての文化を、一つの体系へとまとめあげたのが、指圧という手技だった。
1925年、北海道で生まれた
指圧の創始は、1925年。
浪越徳治郎が、母の膝の痛みに手で触れたことが出発点だったと伝えられている。
薬も道具もない。あるのは自分の指と手のひらだけ。
どこを、どれくらいの強さで、どんなリズムで押せば、身体が応えてくれるのか。
徳治郎は自分の手で確かめながら、押す場所と圧の理論を積み上げていった。
それまで日本各地にあった按摩(あんま)の技や、手当ての知恵。
そこに、指と手のひらで全身に向き合うという独自の発想を加えて、徳治郎は「指圧」という名前と形を与えた。
英語版のWikipediaにも、指圧の創始者(founder)として浪越徳治郎の名が記されている。
指圧は、ここから始まった。
「Shiatsu」が世界の言葉になるまで
指圧は日本の中だけにとどまらなかった。
戦後、徳治郎は日本指圧専門学校を開き、指圧を学問として、また職業として育てていく。
やがて指圧は海を越え、「Shiatsu」というローマ字のまま、世界中で通じる言葉になった。
寿司が「Sushi」、折り紙が「Origami」として世界に伝わったように。
指圧は「Shiatsu」として、日本が生んだ手技文化の名前になった。
いまヨーロッパやアメリカで「Shiatsu」を受ける人がいる。
その一つひとつの手技の遠い源流に、1925年の北海道で母の身体に触れた一人の手がある。
四代、途切れることなく
浪越家は、指圧を家の仕事として受け継いできた。
創始者・徳治郎から数えて、いま施術にあたるのは三代目の浪越孝(たかし)と、四代目の浪越友哉(ともや)。
三代目はいまも現役で手を動かし、四代目がその技と心を受け継いでいる。
三人とも、あん摩マッサージ指圧師という国家資格を持つ。
創始者の家系が、創始した手技を、いまも自らの手で続けている。
これは指圧の歴史のなかでも、浪越家にしかない事実だ。
技術は、言葉だけでは伝わらない。
どの場所に、どんな角度で、どれだけの重みをのせるのか。
手から手へ、世代から世代へ、長い時間をかけて受け渡されていく。
浪越家が一〇〇年近く守ってきたのは、その手の記憶そのものだといえる。
帝国ホテル、中2階で
四代目・浪越友哉がいまサロンを構えるのは、東京・千代田区の帝国ホテル東京。
本館の中2階に、浪越指圧サロンがある。
国内外から人が訪れるこの場所で、一人ひとりの身体の状態をうかがいながら、手のひらと指で向き合う。
強く押すこともあれば、ゆっくりと圧を重ねることもある。
その日の身体に、手が合わせていく。
施術のあいだ、特別なことは起きない。
ただ、手が触れている。
浪越徳治郎が母の身体に触れたあの日と、つながっている時間がそこにある。
張りつめていた肩から、すっと力が抜けていく。
こわばっていた身体が、ゆっくりとほぐれていく。
日々の緊張がやわらぎ、身体が本来のバランスを取り戻していく。
それが、手のひらを通して伝わる指圧という文化のかたちだ。
触れる文化を、日本から
茶道に、一服の茶を点てる作法がある。
武道に、相手を敬う礼がある。
指圧にもまた、手のひらを通して相手を思う、日本らしい心のあり方が流れている。
押せば命の泉湧く。
徳治郎が遺したこの言葉は、技術の説明ではない。
触れることそのものへの、敬意の言葉だ。
日本に生まれ、世界へ広がった手技文化、指圧。
その源流は、1925年の浪越徳治郎にさかのぼる。
そして、その心と技は、いまも浪越家の手のひらに息づいている。
浪越指圧サロン。
帝国ホテル東京 本館中2階で、ご予約をお待ちしております。